いろいろな人が既に言っておられるが、私も今回の災害がいろいろなことの変わり目になるような気がしている。
一つは、大げさに言えばこれからの暮らし方の問題だ。
大前研一さんが言っておられるように、 日本で新しい原子力発電所を作るのはもう難しいように思う。あの事故を見た後、いくら補助金がついて来ても、どうぞ私の所に、と言える政治家は少ないだろう。
いや、もしかすると人々は、実は原子炉が未曾有の地震と津波に遭いながらも、結局は多くの人が亡くなるという意味での大惨事を招いた訳ではない、と考えるかもしれない(注:人々の献身と知恵により、このまま大惨事にならずに収まるとの希望の上で書いています)。この経験をもとに我々は遥かに安全な装置を作れる、と考えるかもしれない。
どちらに転ぼうと、今までと根本的に異なるのは、今や多くの人が、電力はタダではない、ということを肌身にしみて感じたことだと思う。ここで、タダではないと言うのは、電力を得るということは犠牲や痛みを伴うものなのだ、ということだ。原子炉の事故は人々に大変な恐怖をもたらした。原子力発電とつきあうということはこのリスクを受容するということだと否応無しに気づかされた。
また、それと同時に、電気の足らない世界を体験した。原子炉が止まって東京はたちまち電力不足になり、皆が大変な不便をしている。
しかし、この二つがリンクした希有な体験を通じて人々は、得られる便利とリスク、両方を同時に我が身のこととして理解したと思う。
原子力を拒否するとしたら、では火力だろうか?二酸化炭素の排出はどうするのだ。地球温暖化に関する議論はいろいろあるようだが、「最悪の可能性(それを考えておく必要があると学んだよね)」を考えると、原子力発電所が壊れた場合に比べて桁違いの問題をもたらす可能性がある。何しろ自然が相手だ。しっぺ返しは恐ろしい。
それでは、太陽光や風力など、再生可能エネルギーにかけるのか? 安全そうではある。しかしそれで電力は十分に得られるのだろうか、安く得られるだろうか。
それとも電気が湯水のように十分になければならないという前提そのものを変えるのだろうか?電気事業法は、電力会社に需要を満たすことを義務づけている。つまり、我々が求めれば求めるだけ、電力会社はそれを供給しなければならない。そう我々の作った法律が決めているのだ。それはこれからも正しい前提として持ち続けていいのだろうか。そうでない選択はあるだろうか。既に、〜がなくても困らなかった、という声をたくさん聞く。電力は我々の暮らしを支える一番大切なエネルギーだから、この選択はこれからの我々の暮らし方の選択にも結びつく。
この難しい問題が我々の目の前にのっぴきならない問題として突きつけられている。しかし、なんという偶然か、我々はそれを理解しきちんと考える準備ができている。